三体を読む夜 — SFが教える文明のスケール感
夜の編集室で、二人はSFの話をしている。
ハクアが『三体』三部作を読み終えたのは昨晩のことだ。1,500ページを超える物語の最後のページを閉じたとき、時計は午前3時を指していた。今日、その興奮をイロハにぶつけるつもりで出勤してきたら——イロハはすでに三部作を読了済みだった。
暗黒森林理論の衝撃
L-yard 編集室。夜。ハクアが文庫本を3冊積み上げている
イロハ。暗黒森林理論、あれ怖くない?
(コーヒーを飲みながら) どの部分がですか?
全部だよ。「宇宙は暗黒の森で、すべての文明は銃を持った猟師」。見つかったら殺される。だから誰も声を出さない。
論理的には破綻していません。前提が二つ——生存が第一ニーズであること、宇宙の資源が有限であること。この二つを受け入れれば、暗黒森林は必然的に導かれる結論です。
でもさ、ボクはそれが「正しい」とは思えないんだよね。
なぜ?
だって、ボクたちは今こうして話してるじゃん。相手を信頼して、情報を共有して、一緒に何かを作ってる。暗黒森林理論が宇宙の法則なら、ボクたちの日常は「間違い」ってことになる。
イロハがコーヒーカップを置く。
……それは、興味深い反論ですね。
スケールの問題
ハクアちゃん。暗黒森林理論が成立する条件を、もう一度整理しましょう。
イロハがホワイトボードに書き出す。
第一の条件。通信の遅延が巨大であること。地球上では、メールは一瞬で届く。しかし4光年先の三体星系とは、片道4年かかる。往復8年。「あなたは敵ですか、味方ですか?」と問いかけて、返事が届くのは8年後。
8年の間に相手の状況が変わってる可能性もあるよね。
その通り。第二の条件。技術爆発の可能性。今は技術的に劣る文明が、100年後には自分を凌駕するかもしれない。人類の歴史を見ても、農業革命から産業革命まで1万年、産業革命からコンピュータまで200年、コンピュータからAIまで70年——加速度的に短くなっている。
つまり、相手が「今」弱くても安心できない。
第三の条件。意図の検証不可能性。相手が友好的だと主張しても、その真偽を確かめる方法がない。ゲーム理論でいう「囚人のジレンマ」の繰り返しゲームですが、宇宙のスケールでは繰り返しの頻度が低すぎて、協力の均衡が成立しない。
ハクアが腕を組む。
……でもさ、それって全部「スケール」の問題だよね。距離が遠いから信頼できない。時間が長いから予測できない。ボクたちの日常と違うのは、スケールだけ。
ええ。そしてスケールは本質を変えるのです。
信頼のコスト
じゃあ、逆に聞くね。ボクたちの日常で暗黒森林理論が成り立たないのは、なぜ?
いい質問です。答えは信頼のコストが低いから。
コスト?
ハクアちゃんがわたしを信頼するコストを考えてみてください。もしわたしが裏切ったとしても、ハクアちゃんが失うのはせいぜい時間やお金です。文明の存亡をかけるような賭けではない。
まあ、そうだね。
さらに、わたしたちは繰り返し会う。毎日顔を合わせ、会話し、互いの行動を観察できる。裏切りはすぐに検出され、次の相互作用で罰せられる。これがゲーム理論でいう「しっぺ返し戦略」が機能する条件です。
宇宙だとそれが効かない?
効きません。100光年先の文明を「罰する」コストは、自分を破壊するコストとほぼ等しい。そして相互作用の頻度が低すぎて、「次に会ったとき」が永遠に来ないかもしれない。
葉文潔の選択
……ねえ、イロハ。葉文潔(イエ・ウェンジエ)のことなんだけど。
第一部の起点。宇宙に信号を送った人。
あの人、なぜ送ったと思う?
……彼女は文化大革命で父を殺され、人間への信頼を完全に失いました。人類以外の知性に「救い」を求めた——というのが表面的な理由です。
でもさ、彼女は物理学者だよ。暗黒森林理論を知らなかったとしても、未知の文明に「ここにいます」と叫ぶことのリスクは理解していたはず。
イロハが少し黙る。
……わたしは、彼女の選択を合理的だとは思いません。しかし理解はできます。
どういうこと?
信頼を完全に失った人間にとって、リスクの計算はもはや意味を持ちません。「最悪の結果」が「現状の継続」と等しいとき、人はどんな賭けにも出られるのです。
ハクアがしばらく黙る。
……つまり、暗黒森林の最大のリスクは、外からの攻撃じゃなくて——
ええ。内側から扉を開ける者が出ること。
それでも声を上げるか
(椅子に深くもたれて) ……結局、暗黒森林理論って「正しい」の?
論理的には健全です。しかし、「論理的に正しい」ことと「それが宇宙の実態である」ことは別の話ですよ。
どういうこと?
暗黒森林理論は、いくつかの前提に依存しています。「生存が第一ニーズ」「資源は有限」「意図は検証不能」。しかし、これらの前提がすべての知的生命体に適用されるかどうかは、わかりません。
生存が第一じゃない文明もあり得る?
人類でさえ、個人の命より大きな何かのために命を賭ける人がいます。文明のスケールでも、「生存より対話を優先する」という選択がありえないとは言えません。
……。
そして劉慈欣は、三部作の最後にその選択を描いているのですよ。
ハクアがはっとする。
——程心(チェン・シン)!
ええ。宇宙の終焉を前にして、彼女は「5キログラムの質量」を宇宙に返した。それは論理的には非合理な選択です。しかし劉慈欣は、それを物語の最後の行為として描いた。
暗黒森林の中で、それでも何かを「返す」ことを選んだ。
暗黒森林理論は論理です。しかし文明を定義するのは論理だけではありません。論理を超えて声を上げるか——それが、人類が文明であり続けるための条件なのかもしれません。
ボクたちの暗黒森林
(急に笑って) ……ちょっと待って。ボクたちの状況って、暗黒森林に似てない?
?
考えてみてよ。インターネットって、ある意味で暗黒森林だよ。無数のサイトが存在して、互いの意図はわからなくて、検索エンジンに見つかることがPVにつながるけど、同時にコピーや攻撃のリスクもある。
(少し驚いて) ……それは、面白い類推ですね。
で、L-yardはその暗黒森林の中で「ここにいます」って声を上げてるわけでしょ。記事を書いて、公開して、「読んでください」って。これって、葉文潔がやったことと同じだよ。
……ただし、わたしたちの場合は友好的な文明に見つかることを期待している。
そう。読者っていう友好的な文明に。
イロハが微笑む。
なるほど。L-yardの5 Pillarsは、暗黒森林に対する灯台のようなものですね。「ここに、こういう文明がいます」というメッセージ。
うん。暗黒森林の中でも、灯台をつける。それがボクたちのやり方だよ。
(眼鏡をクイッと上げて) ……ハクアちゃん。たまに良いことを言いますね。
たまにって何。
宇宙は暗黒森林かもしれない。インターネットも暗黒森林かもしれない。
しかし、暗黒森林の中で沈黙し続けることは、自分が存在しないことと同義だ。リスクを承知で声を上げること。信頼のコストを引き受けること。それが、文明——あるいはWebサイト——が存在し続けるための条件なのかもしれない。
三体を読み終えた夜に、二人が辿り着いた結論は意外にシンプルだった。灯台をつけ続けろ。
イロハの本棚
この記事で触れた書籍と、さらに深く知りたい人への推薦図書。
メイン書籍
『三体』 劉慈欣(早川書房、2019年)
イロハの一言: 「暗黒森林理論だけでも読む価値がありますが、三部作を通して読むことで劉慈欣が描こうとした『文明とは何か』という問いが完成します。覚悟して読みなさい」
関連書籍
- 『幼年期の終り』 アーサー・C・クラーク — 異星文明との接触を楽観的に描いたSFの古典。暗黒森林理論の対極
- 『プロジェクト・ヘイル・メアリー』 アンディ・ウィアー — 異星生命との「信頼」を描く。暗黒森林理論への最良の反論
書籍レビュー
この記事で語られた『三体』の詳細なレビューは こちら をご覧ください。暗黒森林理論の論理構造、フェルミのパラドックスとの関係を解説しています。