Episode 0:レイヤーの交差点
深夜2時37分、L-yard編集室。
加速するノイズ
ハクアがキーボードを高速で叩いている。Cherry MX黒軸の重い打鍵音が、1秒12回のペースで響く
よし、Webデザインのトレンド記事、完了。キーワード密度3.2%、h2が5本、内部リンク4つ。SEO満点。次、AIツール比較……5分で終わるかな。その次サブスク比較。今夜中に15本いけるかも。
エナドリの缶を傾けるが、中身はもうない。舌打ちして新しい缶を開ける。プシュ
ねーイロハ、次のキーワード頂戴。AIが温まってるうちに量産しちゃうから。
イロハは分厚い本を読んでいた。しおりを挟む。本を閉じる。その動作に3秒かかる。ハクアなら0.5秒で閉じる
……ハクアちゃん。貴方が今「量産」したそのテキスト、誰かが読みたいと思うのですか?
はあ? SEO対策済み、構造バッチリ、3,000字。Googleの1ページ目に載るスペックだよ。何が不満なの。
全部です。行間に「呼吸」がない。配色に「季節」がない。検索エンジンに食わせるテキストであって、人間を相手にしていない。
ユーザーは情報を求めてるんだよ。情緒なんて読み込み速度の邪魔だし。Largest Contentful Paintに「季節感」のスコアなんてないでしょ。
……。
現実問題として、コンテンツの量がないとドメインパワーが――
ドメインパワー。
イロハの声が一段低くなる。ハクアは経験的に、これが危険信号だと知っている
それは検索エンジンの都合であって、読者の都合ではありません。……貴方はL-yardを「ノイズ」にしたいのですか?
イロハがハクアのモニターの電源コードに手をかける
ちょっ、やめっ……物理はやめて! 保存してないんだけど!
保存する価値があるものを書いてから言いなさい。
(電源コードを死守しながら) 横暴! これだから文系は……!
(手を離して) ……ふう。まあいいでしょう。ただし――
デスクに戻り、1kgの分厚い本を片手で持ち上げる
この本を3ページだけ読みなさい。ランダムに開いて。
嫌だよ。重いし。てかなんでボクがそんなの読まなきゃ――
3ページ。それが嫌なら、今夜生成した記事を全部、私の前で朗読してもらいますが?
……3ページね。
ハクアは渋々と本を受け取った。1kgがずしりと手に伝わる。適当にページを開いた。3ページ読めば終わる。そう思っていた。
……ねえ。これ、同じ行に「ファシズム」と「ジャズ」が並んでるんだけど。なにこれ。
ええ。同時代に起きたことですから。恐怖と享楽は同時に存在する。世界は単一のナラティブで語れるほど単純ではないんです。
……ちょ、待って。もうちょっと見ていい?
3ページのつもりが、いつの間にか20ページを超えていた
あっ。1969年。月面着陸とARPANET開始が同じ年。で、文化トラックにウッドストック、政治には反戦運動。「加速」と「抵抗」が同時に……って、今のAIブームとデジタルデトックスの流行と同じ構造じゃん。
(深く頷いて) その通りです。時代を超えた「見立て」。これが編集工学の醍醐味ですよ。
ハクアの手元でエナドリが冷め切っていた。3枚のモニターは相変わらず光っているが、この数十分、一度もキーボードに触れていない
……まあ、20ページ読んじゃったのはイロハには内緒ね。
(微笑んで) 聞いていないことにしましょう。
裏の顔
……確かに面白いのは認めるよ。でもさ、イロハ。
なんですか。
さっきから気になってたんだけど。……手、震えてるよ。
イロハの表情が一瞬だけ揺れる
……何のことでしょう。
休憩室から変な音が聞こえてたんだ。ガコンッ、ガコンッ、って。あれ、ステアリングがロックに当たる音でしょ。10Nmのダイレクトドライブ、またトルク上げすぎたんじゃない?
……「身体性の回復」と言いなさい。
出たよ美辞麗句。ボクのことは「効率中毒」って言うくせに、イロハだって「フォースフィードバック中毒」じゃん。先週なんか右腕に湿布3枚貼ってたし。
(少し間を置いて) ……デジタルの画面だけで仕事をしていると、世界に「重さ」があることを忘れてしまうんです。重さを忘れたデザインは軽い。軽いデザインは記憶に残らない。
はいはい。で、その「重み」で筋肉痛になって、今週の校正が3日遅れてるわけだ。ボクの原稿3本溜まってんだけど。
しかもイロハ、iRacingのレーティング、ボクより高いの知ってるんだよ? 「素人の嗜み」とか言ってたくせに。Safety Rating 4.8は「嗜み」のレベルじゃないでしょ。
(わずかに目を逸らして) ……走る以上は、安全に走るのは当然のことです。
先月のラップタイムログ見たからね。鈴鹿のスプーンだけで200回走ってる。0.01秒単位で削ってるじゃん。それ「安全走行」じゃなくて「執念」って言うんだよ。
(長い間を置いて) ……否定はしません。
自覚あるんじゃん。「身体性の回復」のせいで「編集業務」が止まるって、設計ミスもいいとこ――
……言いましたね。
イロハが眼鏡のフレームに手をかけ、クイッと上げる。「攻撃モード」の合図だ
人の弱点を突く前に、貴方はあの「粗大ゴミ」を片付けたらどうですか?
イロハの指がハクアのデスクの下を指す。黒い布で隠された一角
っ! ……それはゴミじゃないし! 触らないで!
慌てて布を引っ張るが、かえってずれて中身が露わになる
「効率」が口癖のTech担当が、「死んだ技術」を溜め込んでいるんですか。その下のスペース、SSDを3台は置けますよ。
……捨てられないんだって。
声が小さくなる。いつもの「効率至上主義者」の仮面が、音もなく剥がれる
(焦げたマザーボードを持ち上げて) これ、中学の時にお年玉全部つぎ込んで組んだ自作PCの残骸。オーバークロックに挑戦してコンデンサが「パンッ」って破裂してさ。部屋中焦げた匂いがして母さんに怒られた。でもあの時の「手応え」って、クラウドサーバーじゃ絶対に感じられないんだよ。
(黄ばんだCD-Rを持ち上げて) これはもう読めないディスク。中身は……昔、ネットの名もないプログラマーたちと交換した未完成のコード。「Kite」ってハンドルの人がいて、ボクのしょぼいコードを見て「面白い発想だね。こう書くともっとエレガントになるよ」ってリファクタリングしてくれた。ボクが「エレガント」って言葉をコードの文脈で聞いた最初の人。……でもある日、何の前触れもなく書き込みが止まった。ハンドルネームしか知らないから、連絡の取りようもない。ビット・ロットでこのディスクも死んだ。全部消えた。
……。
あとこのトリニトロン。液晶の黒は「バックライトが消えてるだけ」の黒。でもブラウン管の黒は「電子が届かなかった場所の闇」なんだよ。深さが違うの。……「本物の闇」って、デジタルの世界から消えちゃったんだ。
最新のAIもクラウドも、全部こういう「熱くて重くてうるさかった時代」の上に積み上がってる。0と1の間にある「揺らぎ」みたいなものがさ、なんか落ち着くんだよ。
長い沈黙
……ハクアちゃん。貴方、今とても「美しい」ことを言いましたよ。
……は? やめてよ気持ち悪い。急に褒めないで。
褒めているのではありません。事実を述べているだけです。焦げたマザーボードと最新クラウドの間に「繋がり」を見出し、読めないCD-Rの存在に「意味」を読み取る。……貴方は無意識に、情報を「編集」していたんですよ。
……ボクが?
ええ。「効率至上主義」の仮面の下に、こんな豊かな感性を隠し持っていたとは。
いや、感性とかじゃないし。技術的な特性の話をしてるだけだし。
(微笑んで) はいはい。
協定
午前4時。窓の外の空が、わずかに紺色に変わり始めている
なるほど。貴方は「過去」に情を抱き、私は「物理」に渇望を抱く。私たちは二人とも、デジタルの画面の中だけでは生きられない。
……まあ、そういうことになるのかな。効率は本当に大事だよ。ただ、効率で浮かせた時間を何に使うかは別の話でしょ。速く終わらせたいのは、焦げたマザーボードを眺めてボーッとする時間が欲しいからなんだよ。効率で稼いだ余白を、非効率で埋める。矛盾してるのは分かってるけど。
取引をしましょう、ハクアちゃん。貴方の「速さ」で私が思考する時間を作りなさい。ビルドの自動化、下書き生成、データ構造化。代わりに私が、貴方の無機質なテキストに「美学」と「物語」を与えてあげます。
……それって、Techが加速してDesignが深みを与えるってこと?
ええ。ただし条件があります。AIで生成したテキストは必ず人間の目で読み直すこと。そして1行でいいから「横のトラック」を足すこと。
イロハが1kgの本を持ち上げ、ハクアのデスクに歩み寄る
……いやな予感しかしない。
ドスン。1kgがデスクに着地する。エナドリの缶が微かに震える
これを、常にデスクに置いておきなさい。貴方が速さだけで暴走しそうになった時、この1kgの重みが引き戻してくれます。……鈍器ではなく「錨」です。
……重いよ。物理的にも哲学的にも。まあ、モニターの角度調整にはちょうどいいかも。
(眼鏡を光らせて) 用途が違います。
(ニヤリと) 冗談。……じゃあ、今夜書いた10本の記事、全部消す。
……え?
イロハの言う通りだよ。あれは「ノイズ」だ。ボクは人間に読まれるものが書きたい。最初の1本目、テーマはイロハが決めて。
(少し目を見開いて) ……では、「襲の色目」から始めましょうか。平安貴族の色の重ね方を、貴方のターミナルの配色に適用する。
平安の色でターミナルテーマ? ぶっ飛んでるけど面白そうじゃん。
その次は、この本の話を記事にしましょう。貴方のTech脳で、この鈍器の「使い方マニュアル」を書いてもらいます。
本のREADMEか。なるほど、それなら得意かも。
そしてサイトの構成も見直しましょう。今の4本柱に「Books」を加えます。5本の柱で骨格が完成する。
5 Pillarsね。/gaming/ /design/ /tech/ /life/ /books/ ……うん、全部カバーできる。
速い情報はTechとGamingが、遅い情報はBooksとDesignが担う。Lifeがその橋渡し。
(天井を見上げて) 加速で浮いた余白を、静寂で満たす。……L-yardのコンセプトそのものじゃん。
(驚いた顔で) ……聞いていたのですか。
聞いてたよ。……たまにはね。
窓の外が白み始める。青白いモニター光と暖色のデスクランプが、朝の自然光に溶けていく
(猫耳ヘッドフォンをかけ直しながら) さて、まずは襲の色目のCSSから組むか。
ええ。いい朝になりそうですね。
L-yard — Tech needs Design. Speed needs Silence.
イロハの本棚
この記事で触れた書籍と、さらに深く知りたい人への推薦図書。
メイン書籍
『情報の歴史21 — 象形文字から仮想現実まで』 松岡正剛 監修(編集工学研究所)
イロハの一言: 「5万年の人類史を1冊に圧縮した『問い生成エンジン』。この1kgの鈍器がなければ、L-yardは生まれませんでした」
関連書籍
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- 『千夜千冊エディション 本から本へ』 松岡正剛 — 1,800冊超の書評連載を再編集。知の横断の実践例