焦げたマザーボードに宿る「手応え」の記憶 — ハクアの遺物
「効率」を口癖にする人間ほど、捨てられないものがある。
L-yard編集室のTech担当・ハクア。Claude Codeを駆使し、レイテンシーを1ミリ秒単位で削り、デスク上にはエナドリとメカニカルキーボードしかない。だが、そのデスクの下には黒い布で覆われた一角がある。そこに眠る3つの「遺物」が、彼女の本当の顔を教えてくれる。
遺物1:焦げたマザーボード(Socket 7)
L-yard 編集室。イロハが掃除中にハクアのデスク下を覗き込む
ハクアちゃん。この黒い布の下にあるのは何ですか? 前から気になっていたのですが。
……触らないで。
(布をめくって) ……これは。基板ですか? 焦げていますね。それに、この膨らんだ部品は何です?
コンデンサ。破裂してるの。……それ、ボクが初めて自作したPCのマザーボードだよ。Socket 7。
Socket 7……。1990年代後半の規格ですね。随分と古い。なぜこんなものを取っておいているのですか? 産業廃棄物でしょう。
(珍しく声が小さくなって) ……捨てられないんだよ。
Socket 7。IntelのPentiumからAMDのK6まで、複数のCPUメーカーが共通で使えたマザーボード規格だ。1990年代後半の自作PC文化を知る人なら、この名前にピンとくるだろう。
中学の時、お年玉全部つぎ込んで部品買って、1人で組み立てた。説明書なんて英語だし、BIOSの設定もよくわかんないし。でも……電源入れた瞬間にビープ音が鳴って、画面にPOST画面が出た時。あの感覚、今でも覚えてる。
……それが「手応え」ですか。
うん。今のクラウドサーバーは冷房の効いた部屋で涼しい顔してるけどさ。この子は、ボクの無茶なオーバークロックに耐えて、熱を出して死んだんだよ。
ファンが唸って、ケースが振動して、最後にコンデンサが「パンッ」って弾けて。……嘘くさく聞こえるかもだけどさ。「あの頃のPCには体温があった」んだ。
(静かに基板を見つめて) ……嘘くさくはありませんよ。体温のあるものを知っている人間だけが、本当に「速さ」の価値を理解できるのですから。
遺物2:読めないCD-R(ラベル:「Unknown」)
(デスク下からもうひとつ取り出して) これは……ディスクですか。随分と表面が劣化していますね。
あっ、それ返して!
手書きで「Unknown」と書いてありますね。中身は何です?
……もう読めないんだ。ドライブに入れても認識しない。
CD-Rの記録層は有機色素でできている。光や熱、湿度によって数年〜十数年で劣化する。書き込んだデータが読み取れなくなる現象は「ビット・ロット(Bit Rot)」と呼ばれる。「デジタルデータは永遠に残る」。これは、物理的には幻想だ。
中身はさ、昔ネットで知り合ったハッカー……って言っても別にクラッキングとかじゃないよ。当時のBBSで出会った、名前も顔も知らない人たち。その人たちと交換した未完成のプログラムとか、掲示板のログが入ってたはず。
「はず」ですか。
もう確かめようがないから。でもさ、あの頃のインターネットって、今みたいにクラウドに全部残る時代じゃなかった。サーバーが落ちたら終わり。管理者がバックアップ取ってなかったら……全部消える。会話も、コードも、全部。
(いつもの余裕が少し消えて) それは……松岡正剛が『情報の歴史21』で言う「情報の保存と消失」のメタファーそのものですね。アレクサンドリア図書館の焼失と、本質的には同じ。……だからこそ、紙の本には1000年を超える実績があるんです。デジタルメディアの寿命は、まだ誰も証明できていない。
うん。「データなんてコピーすれば永遠に残る」ってボクは普段言ってるけど……この円盤が「嘘だよ」って教えてくれる。だから捨てられない。
(静かに) ……宝石のように扱っていますね。読めない本を捨てられないのは、書架に立つ背表紙が「そこに何かがあった」ことを証明するのと同じ。
だってさ。もう二度とアクセスできない情報って、それだけで価値があるじゃん。Googleで検索しても出てこない。Wayback Machineにも残ってない。……この世界で、この1枚だけが「あの時間が存在した証拠」なんだよ。
(少し表情を崩して) ……ハクアちゃん。貴方、時々とても美しいことを言いますね。
やめてよ気持ち悪い。
遺物3:ブラウン管モニター(トリニトロン管)
そして、この部屋で最も場所を取っている問題物件。4Kモニターの横に鎮座する、この黄ばんだ巨大な塊。美しくありません。撤去を命じます。
……ダメ。
「ダメ」ではありません。リソースの無駄です。このスペースに本棚を置けば、20冊は収まりますよ。
……イロハ、液晶とブラウン管で「黒」を表示してみて。
ソニーのトリニトロン管。単銃三ビーム方式のブラウン管で、1968年の発売以来、テレビ・モニターの画質基準を作った存在だ。2008年の生産終了後も、映像制作やレトロゲームの分野で根強い人気がある。
(並べて表示して) ……確かに、違いますね。液晶の黒は少しグレーがかっている。
液晶の黒は「バックライトが消えてるだけ」の黒なんだよ。でもブラウン管の黒は、「電子が届かなかった場所」の闇。深さが違うの。
……なるほど。
4Kモニターの画素は綺麗だけどさ、それは「計算された光」なんだ。ブラウン管の光は、電子銃から飛んできた電子が蛍光体にぶつかって「物理的に発光」してる。
走査線が1本ずつ描かれるあの「ちらつき」に、ボクはどうしても「温かみ」を感じるんだよ。
(しばらく無言でブラウン管を見つめた後) ……ハクアちゃん。
うん?
その走査線の温かみ、平安時代の「御簾(みす)」に似ていますね。
……は? 御簾って、あの竹のブラインドみたいなやつ?
ええ。御簾越しに人を見ると、横線のフィルターがかかる。完全には見えない。でも、その「不完全さ」が想像力を刺激し、見る者の心に「色気」を生む。ブラウン管の走査線も同じ原理でしょう? 完全な解像度より、少し欠けている方が、人間の脳は美しいと感じる。
……イロハ、ボクのブラウン管を「美しい」って認めた?
(咳払いして) 認めたのではありません。「御簾の美学と同じ構造を持っている」と分析しただけです。……ただ。
ただ?
撤去は、保留にしてあげましょう。骨董品として。
……ふっ。ありがと。
なぜ「効率厨」は捨てられないのか
3つの遺物に共通するものがある。「現在の技術では代替できない何か」を宿していることだ。
| 遺物 | 代替できないもの | 現代技術との対比 |
|---|---|---|
| Socket 7 マザーボード | 物理的な「体温」と「死」 | クラウドサーバーは静かに動き続ける |
| CD-R「Unknown」 | アクセス不能な唯一の記録 | クラウドストレージは検索すれば出てくる |
| トリニトロン管 | 電子の物理発光と走査線の温かみ | 液晶は計算された均一な光 |
ハクアが効率を求めるのは、単に「速いことが好き」だからではない。効率化によって生まれた時間で、これらの遺物が教えてくれる「0と1の間の揺らぎ」を感じるためだ。
AIが加速する世界で、あえて「遅くて、重くて、壊れる」ものを手元に置く。それが、彼女にとっての「手応え(Tegotae)」なのだ。
……ねえイロハ。
何ですか?
ボクがClaude Code使って記事を速く書くのって、実はこういう「古いもの」に触れる時間を作るためだったりするんだよね。
……知っていますよ。貴方が「効率」と呼んでいるものの正体は、「余白を作る技術」でしょう?
……バレてたの。
(ふっと笑って) 双子ですからね。さあ、その余白で何をするか。焦げた基板を眺めるか、この1kgの鈍器を読むか。どちらにせよ、画面の外にある「手応え」を忘れないことです。
了解。……でもエナドリは手放さないからね。あれはボクの「体温」だから。
カフェインの体温を「人間性」と呼ぶのは、さすがに無理がありますよ。
まとめ
テクノロジーは「問題を解決する道具」だと思われている。だが、問題を解決した先に何があるのか。それを教えてくれるのは、道具ではなく「道具の歴史」だ。
焦げたマザーボードは「コンピュータにも体温があった時代」を。読めないCD-Rは「デジタルデータの脆さ」を。ブラウン管モニターは「不完全さの美しさ」を、それぞれ記憶している。
効率の先にある余白を、何で埋めるか。その問いに対する答えのひとつが、「古いものに触れること」なのかもしれない。
イロハの本棚
この記事で触れた書籍と、さらに深く知りたい人への推薦図書。
メイン書籍
『テクノロジーの世界経済史 — ビル・ゲイツのパラドックス』 カール・B・フレイ(日経BP)
イロハの一言: 「技術革新が社会にもたらす『破壊と創造』の歴史。ハクアの遺物が語る『古い技術への愛着』の正体が、経済史の視点から見えてきます」
関連書籍
- 『閉じこもるインターネット — グーグル・パーソナライズ・民主主義』 イーライ・パリサー — 「永遠に残るはずのデータ」が実は消えていく問題を別角度から考察