パレットから「黒」が消えた日
1874年、パリ。カプシーヌ大通り35番地のナダール写真スタジオで、ある展覧会が開かれました。
出品者は30名。モネ、ルノワール、ドガ、ピサロ、シスレー、ベルト・モリゾ——後に「印象派」と呼ばれることになる画家たちです。
批評家ルイ・ルロワは、モネの「印象・日の出」を見てこう書きました。「壁紙の模様のほうがまだましだ」。展覧会のタイトルにはなかった「印象派」という名前は、嘲笑から生まれたのです。
しかし、嘲笑された画家たちの手法には、科学的な裏づけがありました。彼らは感覚だけで描いていたのではない。光と色の物理学を、キャンバスの上で実践していたのです。
シュヴルールの発見——隣り合う色は変化する
印象派の「科学」を語るには、一人の化学者から始めなければなりません。
ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルール。1786年生まれのフランス人化学者で、ゴブラン織物工場の染色部門監督を務めた人物です。
彼はゴブラン工場で奇妙な苦情に直面しました。「染料の品質が悪い。色がくすんで見える」。しかし調べてみると、染料自体には問題がなかった。隣り合う色が互いに影響し合い、見え方を変えていたのです。
1839年、シュヴルールはこの観察を『色の同時対比の法則』として出版しました。
同時対比の法則
この法則の要点は明快です。
2つの色を隣り合わせに置くと、それぞれが相手の補色方向にずれて見える。
赤の隣に灰色を置くと、灰色は緑がかって見える。青の隣に置けば、同じ灰色がオレンジがかって見える。色は孤立して存在するのではなく、常に周囲との関係の中で知覚されるのです。
さらにシュヴルールは補色対比の効果を明らかにしました。赤と緑、青とオレンジ、黄と紫——補色を隣り合わせると、互いの鮮やかさが最大限に引き出される。逆に、パレットの上で混ぜると灰色に濁る。
この発見は、絵画にとって決定的な意味を持ちました。
色は混ぜるな。並べろ。
チューブ絵具——戸外に出た画家たち
シュヴルールの理論だけでは、印象派は生まれなかったでしょう。もう一つ、決定的な技術革新がありました。
金属チューブ入り油絵具です。
1841年、アメリカ人画家ジョン・ゴッフ・ランドが、金属チューブに油絵具を詰めて密封する特許を取得しました。
それまで画家は、顔料と油を自分で練り、豚の膀胱に包んで持ち運んでいました。乾燥が早く、長時間の戸外制作は困難でした。
チューブ絵具は、この制約を一気に取り払いました。軽く、持ち運びやすく、保存も効く。ルノワールはこう述べています。「チューブ絵具がなければ、印象主義もなかっただろう」。
アトリエから太陽の下へ
画家たちは戸外(プレネール)に飛び出しました。
アカデミーの教えでは、「影は黒で描く」とされていました。しかし太陽光の下で実際に風景を観察すると、影には紫や青が見え、木漏れ日にはオレンジや黄色が踊っている。黒い影など、どこにも存在しなかったのです。
モネは「黒は色ではない」と宣言し、パレットから黒を追放しました。影は紫と青で、光は黄とオレンジで描く。シュヴルールの補色理論が、そのまま筆遣いになったのです。
モネの「積みわら」——同じものを何度も描く意味
モネの革新は、「連作」という手法に結実しました。
1890年から1891年にかけて描かれた「積みわら」シリーズは25点。同じ積みわらを、朝、昼、夕方、夏、冬と、異なる光の条件で繰り返し描きました。
なぜ同じものを何度も描くのか。
モネが描いていたのは、積みわらではなく光そのものだったからです。朝の青みがかった光、正午の白い光、夕暮れのオレンジの光——光が変われば、同じ物体の色は完全に変わる。
モネはこう語っています。「私が描いているのは、モチーフと私の間にある空気だ」。
これはニュートンが1666年にプリズムで証明したこと——白い光は、すべての色を含んでいる——の、絵画による実証でした。
スーラと点描——網膜の上で色を混ぜる
シュヴルールの理論を最も極端に推し進めた画家がいます。
ジョルジュ・スーラ。1859年生まれ、わずか31歳で夭逝した天才です。
スーラは、シュヴルールの同時対比に加え、物理学者オグデン・ルードの著書『現代色彩学』を徹底的に研究しました。そして一つの結論に達しました。
絵具をパレットで混ぜれば濁る。しかし、小さな色の点を隣り合わせに並べれば、鑑賞者の網膜の上で混色が起き、より鮮やかな色が知覚される。
これが「点描」——正式には「分割主義(ディヴィジョニスム)」と呼ばれる技法です。
「グランド・ジャット島の日曜日の午後」
1886年に発表された2メートル×3メートルの大作。スーラは約2年をかけ、膨大な数の小さな色の点でこの画面を構成しました。
緑の草地は、青と黄の点で。日光が当たる部分はオレンジと白の点で。影の部分は青と紫の点で。遠くから見ると、これらの点は溶け合い、パレットで混ぜるよりも澄んだ色彩が浮かび上がります。
加法混色と減法混色
スーラの理論的根拠は、加法混色と減法混色の違いにあります。
絵具をパレットで混ぜるのは減法混色です。混ぜるほど光が吸収され、色は暗く濁っていく。赤と緑の絵具を混ぜれば、鮮やかさを失った灰褐色になります。
一方、光を混ぜるのは加法混色です。赤い光と緑の光を重ねれば黄色に、すべての色を混ぜれば白になる。
スーラの点描は、完全な加法混色ではありません。しかし絵具を直接混ぜる減法混色を避けることで、その中間地点——パレットよりも鮮やかで、光よりも実体のある色彩を生み出すことに成功したのです。
ジャポニスムとの交差
印象派の色彩革命には、もう一つの源流がありました。
1867年のパリ万博で大量に紹介された日本の浮世絵です。北斎の「冨嶽三十六景」や広重の「東海道五十三次」に使われた**プルシアンブルー(ベロ藍)**の鮮やかさは、パリの画家たちを魅了しました。
モネの自宅には200点以上の浮世絵コレクションがあり、ジヴェルニーの庭には太鼓橋が架けられました。浮世絵の平面的な構図、大胆な色面、余白の使い方は、アカデミックな遠近法と陰影法に縛られていた西洋絵画に、新しい可能性を示したのです。
西洋で生まれたプルシアンブルーが日本の浮世絵を変え、その浮世絵が印象派を刺激し、印象派が現代美術の扉を開いた——色彩の歴史は、こうして国境を越えて螺旋を描いています。
科学は芸術を殺したか
印象派に対する批判の一つに、「科学に依存しすぎている」というものがありました。点描に至っては、「絵画を数学の問題にしてしまった」とまで言われました。
しかし、結果はどうだったでしょうか。
シュヴルールの理論を知ったモネは、より自由に色を使えるようになりました。スーラの点描は、20世紀のフォーヴィスムや抽象表現主義への道を開きました。科学は画家の目を縛ったのではなく、既成概念から解放したのです。
「影は黒い」「空は青い」「草は緑だ」——そう教えられてきた常識を、光学は覆しました。影には紫が見え、空は時刻によって橙に染まり、草には黄と青が共存している。科学が教えたのは「正しい色の塗り方」ではなく、**「自分の目で見ろ」**ということだったのです。
印象派の画家たちが追い求めたのは、結局のところ、絵具で光を捕まえるという不可能な試みでした。その試みは今も、美術館の壁に架けられたキャンバスの上で、静かに光を放ち続けています。