『情報の歴史21』をハックする(前編)— 人類史の巨大な JOIN クエリ
本の重さで人を脅すのは、普通ならマナー違反だ。だがこの1冊に限っては、その物理的な質量こそが最大の「機能」かもしれない。
松岡正剛 編『情報の歴史21 ―ヴィジュアル版』。516ページ、A4変型判、約1kg。人類5万年の情報史を、政治・経済・宗教・科学・技術・芸術・文化の7トラックで同時に年表化した、異形の一冊だ。百科事典でもない。教科書でもない。松岡正剛が提唱する「編集工学」の思想そのものを、物理的な本として具現化したものだ。
この本には「正しい読み方」がない。代わりに「正しいハックの仕方」がある。
なぜ2026年のAI全盛期に、20年以上前に改訂された紙の年表を推すのか。AIが「答えの速度」を加速させた今こそ、人間に求められるのは「問いの質」だからだ。どんな問いを立てるか。何と何を比較するか。その力を鍛えるツールとして、この1kgの鈍器に匹敵するものを、まだ見つけていない。
L-yard編集室のイロハが「聖典」と崇め、ハクアが「鈍器」と恐れるこの本を、二人の対話で解剖する。前編では、松岡正剛という人物の紹介から始め、本の構造分析、そして実践的な「時間旅行」で3つの時代を横断する。
松岡正剛という「編集者」
L-yard 編集室。イロハのデスクに鎮座する分厚い本。ハクアが遠巻きに見ている
そもそもさ、松岡正剛って誰なの? ボクが知ってるのは「やたらと本を出す人」「編集工学研究所の所長」くらいなんだけど。
松岡正剛は、日本の「知」の世界において最も異質な存在の一人です。「編集者」であり「思想家」であり「教育者」であり、しかしそのどれにも完全には当てはまらない。
ふわっとしてるなあ。もうちょっと具体的に。
では、こう言いましょう。松岡正剛は「知識を横断する方法」を発明した人です。通常、学者は1つの分野を深く掘り下げる。歴史学者は歴史を、物理学者は物理を、文学研究者は文学を。
だが松岡は、それらすべてを「横断」することに人生を賭けた。歴史と物理と文学を同時に見て、その「間」に新しい意味を見出す方法論を体系化した。それが「編集工学」です。
知識の横断……まあ、要はジェネラリストってこと?
違います。ジェネラリストは「広く浅く知っている人」です。松岡は「広く深く、しかも横に繋げる人」。専門家が深さ(Depth)を武器にするなら、松岡の武器は幅(Breadth)と接続(Connection)です。
Depth vs Breadth × Connection。……データベースで言うと、正規化されたテーブルをJOINする人、って感じ?
(眼鏡を光らせて) ええ。見事な例えですね。世界は「正規化された」分野別のテーブルに分かれていますが、松岡はそれらに JOIN をかけて、人間が見落としている関係性を浮かび上がらせる。そして、その JOIN の結果を1冊の本にまとめたものが、『情報の歴史21』なんです。
なるほど。つまりこの本は、世界最大の JOIN クエリの結果セットってわけだ。
ふふ。語弊がありますが、本質は合っています。
松岡正剛の著作は膨大で、千夜千冊をはじめとする書評連載だけでも1,800冊を超える。しかし、そのすべての基盤にあるのが『情報の歴史21』だ。この本が「原データベース」であり、他のすべての著作は、そこからの「クエリ結果」と言える。
千夜千冊ってなに? 1,800冊の書評って、それ人間の処理能力超えてない?
松岡正剛が2000年から続けているWeb連載で、毎晩1冊ずつ、ありとあらゆるジャンルの本を紹介しているものです。文学、科学、宗教、数学、生物学、漫画……分野を問わない。
しかも単なる要約ではなく、必ず他の本や概念と「繋げる」んです。仏教の本を語りながらライプニッツの哲学に飛び、ライプニッツからコンピュータの二進法に繋がり、そこから情報理論に接続する。
つまりハイパーリンクを人力でやってるってこと? Webが登場する前からWebをやってた人じゃん。
正確に言えば、Webのハイパーリンクが松岡的思考に近づいたのです。順番が逆ですよ。
『千夜千冊』が「1冊ずつの深掘り」だとすれば、『情報の歴史21』は「すべてを1枚の地図にした俯瞰図」。縦の探索と横の俯瞰。この2つが松岡正剛の方法論の両輪です。
この本は「読む」ものではない
ねえイロハ。前からずっと聞きたかったんだけどさ、その本、本当に「読んでる」の? 516ページもある本を最初から最後まで通読するとか、非効率の極みなんだけど。
(本の表紙を撫でながら) 当然、読んでいませんよ。
え。
この本は「読む」ものではないんです。「開く」ものです。
……は? 同じことじゃん。
違います。小説やビジネス書は1ページ目から最後まで線形に読む。でもこの本は違う。任意のページを開いて、そこに並ぶ複数の情報を「横に」見る。読書ではなく「閲覧」、もっと言えば「探索」です。辞書を「読む」人がいないのと同じ。
辞書……ああ、なるほど。要はリファレンスマニュアルってことね。APIドキュメントを最初から読む人いないのと同じか。
ふふ、悪くない例えですね。ただし、APIドキュメントは「正解」を返します。この本は「問い」を返すんですよ。
問い?
ええ。たとえば貴方が「なぜスマートフォンは生まれたのか」を調べたいとします。Googleで検索すれば、Apple、Steve Jobs、2007年という「答え」が返ってくる。
でもこの本を開くと、同じ時代の横に「リーマンショック」「YouTube」「アラブの春」が並んでいる。すると貴方は「なぜこの技術がこのタイミングで生まれたのか」という、もっと深い問いを持つことになる。
答えではなく問い……確かに、Google検索で「問い」が返ってくることはないね。検索窓に打ち込んだ時点で、問いはもう決まってる。この本は、問い自体を「生成」してくれるってこと?
正確です。この本は「問い生成エンジン」なんですよ。
待って。それって、ボクたちプログラマーが使う「ラバーダックデバッグ」に似てない? アヒルの人形に向かってコードの説明をしてると、自分で答えを見つける、っていうやつ。
この本も同じでしょ。ページを開いて情報を眺めることで、自分の頭の中に問いが生まれる。本は答えを返してるんじゃなくて、思考のきっかけを与えてるだけ。
……なるほど。ラバーダック。この1kgの鈍器が「歴史のラバーダック」だと言うのですか。
えーと、もうちょっとカッコいい言い方にすると……「思考のトリガーデバイス」?
(苦笑して) まあ、本質は外れていません。ラバーダックが「自分のコードを声に出して説明する」ことで問題を発見させるように、この本は「複数の情報を視界に入れる」ことで問いを発見させる。
受動的に読むのではなく、能動的に「開く」行為が思考を起動させるんです。
「問い生成エンジン」という表現は大げさに聞こえるかもしれない。だが実際にこの本を手に取って、任意のページを開いてみてほしい。すぐにその意味が分かる。
7つのトラックが横に並ぶ見開きを眺めると、脳が勝手に「なぜこれとこれが同時に起きたのか」と問い始める。答えは本の中にはない。答えは読者の頭の中で生まれる。これが松岡正剛が設計した「仕掛け」だ。
解剖:5万年を7トラックで並走させる構造
さて、まずこの本の「設計思想」を理解しなさい。貴方はコードを読む前にアーキテクチャを把握するでしょう? 同じことです。
はいはい。で、どういう構造なの?
(本を開いて見開きを指でなぞる) この年表は、横軸に7つの「トラック」が走っています。
| トラック | 内容 | 色の傾向 |
|---|---|---|
| 第1トラック | 政治・国家・戦争 | 赤系 |
| 第2トラック | 経済・産業・交易 | 黄系 |
| 第3トラック | 宗教・思想・哲学 | 紫系 |
| 第4トラック | 科学・技術・発明 | 青系 |
| 第5トラック | 芸術・文学・音楽 | 緑系 |
| 第6トラック | 文化・生活・社会 | 橙系 |
| 第7トラック | メディア・情報・通信 | 灰系 |
7レーンのマルチトラック・タイムライン。データベースで言うと、年代がプライマリキーで、7つのカラムがあるテーブル構造か。
そう。そして縦軸が時間。紀元前3万年から21世紀まで。ただし均等な配分ではありません。古代は数千年が見開き1ページに収められ、近現代は1年が1ページ以上を占める。情報量の加速に合わせて、ページの密度も加速しているんです。
ズームレベルが時代によって違うってことか。対数スケールみたいな。
そうです。そして最も重要なのは、同じ「行」に並ぶ情報は同時代に起きた出来事だということ。たとえば1450年の行を見ると――
えーと……「グーテンベルクの活版印刷」がメディアのトラックにある。で、横を見ると……「コンスタンティノープル陥落」が政治のトラック? 「ルネサンス最盛期」が芸術?
その3つが同時に起きている。印刷技術の爆発、東ローマ帝国の崩壊、そして芸術の復興。偶然だと思いますか?
……偶然じゃないよね。帝国が滅びてギリシャの知識人が西に逃げて、その知識が印刷技術で拡散されて、ルネサンスが加速した……ってこと?
素晴らしい。貴方、今「編集工学」をしましたよ。
え、今の? ボクはただ横を見て、点と点を繋いだだけだけど。
それが編集工学です。普通の歴史書は縦(時系列)で語る。「1453年にコンスタンティノープルが陥落し、その後ルネサンスが加速した」と。
でもこの本は横に並べることで、「因果関係」ではなく「同時性」を見せる。すると教科書的な一方向の物語ではなく、複数の力が同時に作用する「構造」が見えてくるんです。
実践:この本で「時間旅行」してみる
理論はここまで。実際にこの本を開いて、時間旅行をしてみましょう。
時間旅行?
ええ。貴方の好きな年代を3つ選びなさい。私がその年代を開いて、「横の読み方」をガイドします。
じゃあ、まず2000年。ボクが物心ついた頃。
イロハが2000年のページを開く
2000年。技術トラックに何がありますか?
「Y2K問題」と「Windows Me」と……あ、「ヒトゲノム計画ドラフト完成」。
経済トラックは?
「ITバブル崩壊」。
文化トラックは?
「PlayStation 2発売」「シドニー五輪」……あと「千と千尋の神隠し」? いや、それは2001年か。
横を見なさい。ITバブルが崩壊した同じ年に、PS2が発売されている。経済が絶望に沈む中で、エンタメが新しい体験を提供していた。これは何を意味しますか?
……不況だからこそ「安い娯楽」が伸びる? 外に出かける余裕がなくなるから、自宅で遊べるゲーム機の需要が上がる?
もう一歩。Y2K問題が「コンピュータの脆弱性」を世界中に知らしめた一方で、PS2は「コンピュータの楽しさ」を広めた。恐怖と快楽が、同じ技術のコインの裏表として現れた年なんです。
……なるほど。単体で見ると「ITバブル崩壊」はただの暴落だけど、横を見ると「テクノロジーの光と影が同時に極まった年」になるんだ。
そうです。では次。もう少し遡って。
1920年代。ジャズ・エイジ。
イロハがページをめくる
あった。政治に「ファシズムの台頭」。経済に「ウォール街の熱狂」。文化に「ジャズ・エイジ」「フラッパー」。技術に「ラジオ放送開始」「映画産業の勃興」。芸術に「シュルレアリスム」「バウハウス設立」。
すべてが同時に爆発しているでしょう。1920年代は「加速」の10年です。経済は加速し、文化は加速し、技術は加速し、政治もまた加速した。
だがその加速は、どこに向かいましたか?
……1929年の大恐慌。そして1930年代のファシズム。加速の果てに大破綻。
ラジオというメディアが、ジャズを広め、株式投資のブームを煽り、そしてヒトラーの演説も広めた。同じ技術が、文化と経済と独裁を同時に加速させた。
メディアのトラックだけ見ていれば「ラジオの普及」という中立的な事実です。だが横のトラックを見れば、その技術が引き起こした「多面的な衝撃」が見える。
うわ……今のAIとそっくりじゃん。同じ技術が、創作を助け、経済を動かし、フェイクニュースも生み出してる。ラジオの時代と構造が一緒だ。
その「見立て」が、まさに編集工学です。1920年代のラジオと2020年代のAIに「共通構造」を見出す。時代は違うけれど、パターンは同じ。
じゃあ、3つ目。もっと昔。紀元前の何か。
イロハが大きくページを遡る
紀元前5世紀。ここ、すごいね。政治トラックに「ペルシア戦争」「アテナイ民主制」。哲学トラックに「ソクラテス」「仏陀」「孔子」。全部同時代?
そう。これが有名な「軸の時代(Axial Age)」です。カール・ヤスパースが指摘した概念ですが、松岡正剛はこの年表でそれを「視覚化」している。
ギリシャでソクラテスが哲学を始め、インドで仏陀が悟りを開き、中国で孔子が礼を説いた。ユーラシアの東西で、ほぼ同時期に「人間とは何か」を問う思想が生まれた。
互いに連絡を取り合ってたわけじゃないのに? 紀元前5世紀にインターネットはないよ。
ないですね。だがこの「同時性」は偶然で片付けるには出来すぎている。都市文明が一定の成熟に達すると、人間は「存在の意味」を問い始める。
インフラが揃い、余暇が生まれ、「ただ生きる」だけでなく「なぜ生きるか」を考える余裕ができた。それが東西同時に起きたんです。
なるほど……技術の発展が一定レベルに達すると、哲学が発生するのか。今で言えば、AIが発達した結果「AIに仕事を奪われたら人間の存在意義は何か」って哲学的な問いが生まれてるのと同じ構造?
(深く頷いて) 紀元前5世紀と21世紀を繋ぎましたね。2,500年の時を超えた「見立て」です。技術の飽和が哲学を生む。この構造は、人類が何度も繰り返してきたパターンなんです。
……もう1つだけ。さっきの3つで見えてきたパターンがあるんだけど。
言ってみなさい。
2000年のITバブル崩壊は「加速の破綻」、1920年代は「加速の果ての暴走」、紀元前5世紀は「成熟からの哲学」。全部、ある種の「飽和点」の話じゃない? システムが一定の複雑さに達すると、何かが壊れるか、何か新しいものが生まれるかする。
……ハクアちゃん。今、貴方は3つの時代を横断して「メタパターン」を抽出しました。
個別の時代を見るだけではなく、時代と時代の間の共通構造を見出した。それこそが編集工学の最も高度な使い方です。
え、今のってそんなすごいこと?
すごいことです。「2000年のドットコムバブル」「1920年代のラジオバブル」「紀元前の都市文明バブル」。すべてに「技術が社会の消化能力を超えた瞬間」がある。
その瞬間に、破壊と創造が同時に起きる。これが分かれば、今のAIブームの「飽和点」がどこに来るか、おおよその見当がつくでしょう?
……それって、投資家が喉から手が出るほど欲しい情報じゃん。
ふふ。だからこの本は「鈍器」であると同時に「武器」なんです。
後編に続く: 『情報の歴史21』をハックする(後編)
イロハの本棚
この記事で触れた書籍と、さらに深く知りたい人への推薦図書。
メイン書籍
『情報の歴史21 — 象形文字から仮想現実まで』 松岡正剛 監修(編集工学研究所)
イロハの一言: 「516ページ、約1kg。デジタル検索では見つからない『文脈の面』が、見開きを横に読むだけで見えてきます。まずは自分の生まれ年を開くことから」
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