シムとリアルの境界線
ハクアが珍しく興奮した様子で編集室に入ってきた。手にはサーキットの入場チケットを握っている。
初めてのサーキット体験
L-yard 編集室。月曜の朝。
イロハ! 週末、富士スピードウェイの走行会に行ってきた!
(驚いて) ハクアちゃんが……外出? しかもサーキット?
うるさいな。iRacingで富士を何百周も走ってるんだから、一度は本物を走ってみたかったの。
それで、どうでした?
ハクアが一瞬黙る。
……正直に言うと、ビビった。
転送できるスキル、転送できないスキル
何にビビったんですか?
まず、Gがすごい。iRacingだとブレーキングで数字が見えるだけだけど、実車だとシートベルトが食い込んで、身体が前に持ってかれる。コーナーでは首が横に引っ張られる。
シミュレーターが再現できない身体への力ですね。
うん。で、面白いのが、ライン取りとブレーキングポイントはiRacingの知識がそのまま使えた。「ここで踏む」っていうタイミングは合ってた。でも、ブレーキの踏み方が全然違う。
踏み方?
シムだとペダルは一定の硬さだけど、実車のブレーキはタイヤのグリップと連動して感触が変わる。ABS作動する瞬間の振動とか、シムには絶対にない。
イロハがメモを取り始める。
整理しましょう。シムから実車に転送できるスキルとできないスキル。
| 転送可能 | 転送不可 |
|---|---|
| ライン取りの知識 | ブレーキの踏力加減 |
| ブレーキングポイント | G(横G・縦G)の身体感覚 |
| レース戦略・判断力 | タイヤの温度感覚(グリップ変化) |
| コースレイアウトの記憶 | 視覚の違い(奥行き・速度感) |
| 天候変化への対応判断 | 恐怖心とアドレナリン |
身体がない知識の限界
これは、わたしがよく話す「身体性」の問題そのものです。
出た、イロハの身体性論。
(微笑んで) ハクアちゃんは今、身体で理解したはずです。知識は頭にあるが、技術は身体にある。シムは頭の知識を鍛えるのに最適ですが、身体の技術は実車でしか獲得できない。
……悔しいけど、その通りだ。ボクのiRacingのレーティングは結構高いのに、実車では初心者にしか追いつけなかった。
でも、まったくの初心者よりは圧倒的に上手だったのでは?
(考えて) ……まあ、そうだね。走ったことないコースでも、シムの経験がある人はライン取りで迷わない。周りの初心者が「どこで曲がるんだっけ」ってなってる間に、ボクは最初から正しいラインを走れた。
つまり、シムは「知識のブートストラップ」としては非常に優秀。
ブートストラップ。なるほど、起動時の初期ロードか。
プロドライバーはシムをどう使うか
でもさ、実際のF1ドライバーもシム使ってるよね。ランド・ノリスはiRacing上位勢だし、マックス・フェルスタッペンもシムレーサーとして有名。
彼らはすでに身体の技術を持っているからです。身体性は実車で獲得済み。その上で、シムを使って新しいサーキットのライン学習や、セットアップの方向性テストを行う。
つまり、順番が逆なんだ。プロは「身体の技術があった上でシムを使う」。ボクみたいなアマチュアは「シムの知識があった上で身体を鍛える」。
どちらのアプローチも有効です。ただし、身体性が欠けた状態で知識だけを積み上げても、実践では半分しか使えない。
ハクアがステアリングコントローラーを見つめる。
……ボク、もっとサーキット行かなきゃだな。
(嬉しそうに) ハクアちゃんが外に出る理由ができて、わたしは嬉しいです。
うるさい。
知識と実践のループ
今日の話を一般化すると、こうなります。
イロハがホワイトボードに描く。
知識(シム)→ 実践(実車)→ 振り返り(シム)→ 実践。このループを回すことで、知識と身体の両方が鍛えられる。
プログラミングも同じか。本で学んだアーキテクチャを実際のプロジェクトで使って、うまくいかなかったら本に戻る。
まさにそうです。どんな分野でも、知識と実践は片方だけでは不完全。両方を行き来するループが、本当のスキルを作る。
(立ち上がる) よし。まずiRacingで富士を10周走って、週末の走行会で気づいた点を検証する。それからまた実車に乗る。
完璧なループです。
イロハの本棚
この記事で触れた書籍と、さらに深く知りたい人への推薦図書。
メイン書籍
『ドライビング・テクニック・マスター』 中谷明彦(三栄書房)
イロハの一言: 「プロドライバーが言語化したドライビング理論。シムレーサーが実車に出るときの教科書です。」
関連書籍
- 『Going Faster!』 Carl Lopez — アマチュアレーサーのためのドライビングバイブル(英語)
- 『身体知』 諏訪正樹 — 「身体が知っている」とはどういうことかを認知科学から解明