5万円で手に入る「第二の身体」——シムレーシングが変えるもの
ハンドルを握る。アクセルを踏む。ステアリングが路面のざらつきを伝えてくる。
シムレーシングは「ゲーム」だ。だが、良いハンコンを握った瞬間、それは単なるゲームではなくなる。指先が「道路」を知り、足裏が「タイヤの限界」を感じる。画面の中の車が、自分の身体の延長になる。
5万円のハンコンと20万円のハンコン。スペック表だけでは分からない、その差の「正体」を考える。
スペック表の外側
L-yard 編集室の休憩室。シムレーシング機材の前にて。ハクアがホイールベースの箱を開けている
イロハ、見てよこれ。GT DD Pro、8Nm。ついにダイレクトドライブの世界だよ。
あら。それまでは何を使っていたんですか?
G923。ベルトドライブの2Nm。いやもう、全然違うんだって。レスポンスがゼロ遅延だし、トルク4倍だし、静かだし。
数字はよく分かりましたわ。では、体感として何が変わるんですか?
え? だから、トルクが4倍で——
それは「数字が変わった」という説明ですわね。ハクアちゃんの「手」に何が起きたのか、を聞いていますの。
……あー。えーと。……なんて言えばいいんだろ。
(少し微笑んで) 言語化できない、ということは、それだけ身体的な体験だということですわ。
……うん。なんかね、G923のときは「ゲームの演出」って感じだったの。振動が来る、抵抗がある、っていう。でもDD Proにしたら、「道路が見える」んだよ。手で。
「手で道路を見る」。素敵な表現ですわね。
FFB——フォースフィードバック。多くの人はこれを「ゲームのリアルさを高める演出」だと思っている。ステアリングが重くなったり、振動したり。
だが、シムレーシングにおけるFFBの本質は「演出」ではない。路面情報の伝達だ。
タイヤがどれだけグリップしているか。路面の凹凸はどうか。アンダーステアが出始めているか。これらの情報が、ステアリングを通じて手のひらに伝わる。良いFFBは、プレイヤーの手を「車のセンサー」にする。
| FFB方式 | トルク | 情報伝達 | 体感 |
|---|---|---|---|
| ギアドライブ | ~1.5Nm | 粗い | ガタガタする振動 |
| ベルトドライブ | ~2.5Nm | 中程度 | 重さは感じるが曖昧 |
| ダイレクトドライブ | ~8Nm+ | 精密 | 路面の「質感」が手に伝わる |
そう、それ! G923だと「なんか重い」だったのが、DD Proだと「このコーナーの出口は少し荒れてる」まで分かるんだよ。
つまり、2Nmと8Nmの差は「パワーの差」ではなく、「解像度の差」なんですわね。
……解像度。あー、そういう言い方するとしっくりくるかも。
ブレーキを踏む、ということ
ところでハクアちゃん、ペダルも変えましたの?
うん。ロードセルブレーキにした。Load Cell Kit追加しただけだけど。
感想は?
(即答で) 世界が変わった。
まあ。随分と大きく出ましたわね。
いや本当に。今までのブレーキって、踏む「量」——つまりペダルがどこまで沈んだかで制御してたの。でもロードセルは踏む「力」で制御する。これが全然違う。
……もう少し詳しく聞かせてくださいませ。
えーと。ポテンショメーター式だと、「ペダルを70%の位置まで踏む」っていう操作なの。でも実車のブレーキって、奥に行くほど硬くなるでしょ? ロードセルはその「硬さに対してどれだけ力を入れるか」で制御する。足裏の圧力がそのまま制動力になる。
つまり、「位置の制御」から「力の制御」への転換ですわね。
そうそう! で、これって実は身体的にすごい違いでさ。位置制御だと「目で見て足を動かす」感じなんだけど、力制御だと「足が覚えてる」感じになるの。
ふふ。ハクアちゃん、それは「手続き記憶」ですわ。自転車に乗るのと同じ。頭で考えるのではなく、身体が覚える。
ここで少し、シムレーシングの外の話をしよう。
私たちが日常的に触れるデジタルインターフェースの多くは、「抵抗のない操作」で設計されている。タッチスクリーンはガラスをなぞるだけ。キーボードのキーストロークは浅く軽い。マウスのクリックは指先の微かな力で完結する。
効率的だ。だが、そこに「身体の実感」はあるか。
ロードセルブレーキは、その対極にある。ペダルを踏む力が、ダイレクトに結果に反映される。強く踏めばロックし、絶妙な力加減でトレイルブレーキングが決まる。身体が道具と「会話」している感覚。
シムレーシングにハマる人が多いのは、スペックや映像のリアルさだけではない。「身体を使っている実感」が、デジタルの世界の中で得られるからだ。
……あー。ボク、ずっと「リアルだから楽しい」って思ってたけど、もしかして違うのかも。「身体を使ってるから楽しい」のかもしれない。
ええ。ハンコンは楽器に似ていますわ。ピアノのタッチが演奏を変えるように、FFBの質がドライビングを変える。そして、良い楽器は弾き手の身体と「対話」しますの。
5万円の覚悟
でもさ、こういう話をすると「じゃあ最初から高いの買わなきゃダメなの?」ってなるじゃん。5万円のG923じゃダメなのかって。
いい質問ですわ。ハクアちゃんは、どう思いますか?
うーん……。正直、G923でも十分楽しかったよ。ボクはG923で200時間以上走ったし。FFBが「粗い」って言ったけど、それでもパッドコントローラーとは天と地の差だったし。
つまり、5万円の機材でも「身体の拡張」は起きるんですわね。
うん。解像度は低いけど、「手でハンドルを回して車を操る」っていう根本は同じだから。
では、なぜ多くのガイドが「まずは安く始めて、合わなければ撤退」と書くのでしょう?
そりゃ、いきなり20万円はリスクでかいでしょ。合わなかったら……。
「合わなかったら」。その前提が、少し気になりますわ。
え?
ハクアちゃん。「安いからとりあえず試す」という姿勢と、「これに5万円を賭ける」という姿勢は、同じ5万円でも得られるものが違いませんか?
……。
CDの話を覚えていますか? 3,000円を払ったCDは何度も聴き返す。サブスクの無料体験は聴き流す。道具との関係も同じですわ。「いつでも辞められる」前提で始めたものと、「これで上手くなる」と決めて始めたものでは、向き合い方が変わりますの。
ここは意見が分かれるところだ。
「まずは安く試す」は、合理的な選択肢として正しい。5万円で「自分にシムレーシングが合うか」を確認し、合えばアップグレード、合わなければ撤退。損失を最小化する戦略だ。
一方で、「安い機材で始めたからこそ、本来の魅力が伝わらなかった」というケースもある。2NmのFFBでは路面情報の「解像度」が低く、「ゲームの延長」で終わってしまう可能性がある。
| アプローチ | メリット | リスク |
|---|---|---|
| 5万円で試す | 損失最小化、気軽 | FFBの魅力が伝わりきらない |
| 10万円で本気 | DD体験で即没入 | 合わなかった場合の損失大 |
| 中古で試す | コスト削減 | 状態の見極めが必要 |
……でもさ、ボクはG923で200時間走って、そのあとDD Proに替えて「うわ、こんなに違うのか」って感動したわけじゃん。G923がなかったら、DD Proの良さも分からなかったかもしれない。
ふふ。それは良い視点ですわ。「知らない」からこそ段階を踏む意味がある、と。
うん。5万円は「撤退用の保険」じゃなくて、「次のステップを見つけるための学費」だったのかも。
素直でよろしい。結局のところ、機材選びは予算の問題ではなく、「自分の身体とどう向き合うか」の問題ですわ。5万円でも20万円でも、ハンドルを握る手に意識を向けなければ、ただの周辺機器のままですもの。
(ステアリングに手を置きながら) ……よし。じゃあ今夜のiRacing、いつもより手のひらに集中して走ってみるわ。
(微笑んで) 道路を「見て」らっしゃい。
シムレーシングの入口は5万円で開く。だが、その先に広がる世界は、スペック表の数字では測れない。
ハンコンとは、デジタル空間に「身体を接続する」ための装置だ。FFBは路面と手をつなぎ、ロードセルは意志と制動力をつなぐ。画面の向こうの車が、指先と足裏を通じて「自分の身体」になったとき、シムレーシングは「ゲーム」から「体験」に変わる。
5万円で始めるか、20万円で始めるか。その判断は各人に委ねるとして、ひとつだけ確かなことがある。ハンドルを握ったら、スペックではなく、自分の手のひらに意識を向けてほしい。そこに伝わるものが、シムレーシングの本当の魅力だから。
イロハの本棚
この記事のテーマをさらに深く考えたい方への推薦図書。
メイン書籍
『道具と身体——「道具の使い方」の人間学』 石田英敬(岩波書店、2010年)
イロハの一言: 「道具を使うとき、道具は身体の一部になる。この本を読むと、ハンコンがなぜ『ただの周辺機器』で終わらないかが分かりますわ」
関連書籍
- 『アフォーダンスの心理学』 エドワード・リード — 環境が身体に「行動の可能性」を差し出す仕組みを解き明かす
- 『身体の知性——身体が先、脳はあと』 佐々木正人 — 「身体が考える」とはどういうことか。デジタル時代にこそ読みたい一冊
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