ステアリングの重力 — シムレーシング身体性論
デジタルの世界に「重さ」を求める人がいる。
L-yard編集室の休憩室には、場違いな存在感を放つ機材がある。アルミフレームのコックピット、ダイレクトドライブのステアリングベース、3ペダル。総額で小型バイクが買える値段の、シムレーシング装備だ。
「誰の趣味なの?」と聞いたら、意外な答えが返ってきた。
10Nmの告白
L-yard 編集室・休憩室。ハクアが休憩室のシムレーシング機材を眺めている
ねえイロハ。この休憩室のコックピット、ずっと気になってたんだけど。誰のなの?
……わたしのですが。
は?
(眼鏡をクイッと上げて) なにか問題がありますか?
いやいやいや。え、本当に? 色彩とか襲の色目とか言ってる人が、レースゲームやるの?
「ゲーム」ではありません。シミュレーションです。それと、このベースはダイレクトドライブ。10Nmの出力がありますから、本物のステアリングと同等の手応えを返してくれますよ。
……なんでそんなスペックすらすら出てくるの。てかボクより詳しくない?
ダイレクトドライブ。シムレーシング用ステアリングベースの最上位カテゴリだ。モーターの回転力をギアを介さずダイレクトにステアリングシャフトに伝える。結果として、路面の凹凸、タイヤのグリップ限界、縁石の振動——すべてがステアリングの「重さ」として手に伝わる。
ハクアちゃん。座ってみなさい。
え、いいの? ……うわ、ペダル重っ。
ブレーキはロードセル式です。踏力で制動力が変わります。つま先の圧ではなく、太腿の筋肉で踏むのですよ。
(ステアリングを握って) お、画面にニュルブルクリンクが……。あ、スタートした。……ちょ、ステアリング重い! 直進してるだけなのに引っ張られる!
それがキャンバースラストとセルフアライニングトルクです。タイヤが路面と対話しているのですよ。
デジタルの中に物理を取り戻す
(コーナーで格闘しながら) うわっ、ステアリング持ってかれた……! これフォースフィードバックがキツすぎない?
それが「正しい」のです。実車のステアリングは重いものですから。
でもさ、ボクらが操作してるのはモニターの中の映像じゃん。物理的に重くする意味あるの? 軽いほうが反応速いし、手も疲れないし。
(ふふ、と微笑んで) そこです。貴方のその発問こそが、シムレーシングの本質に触れていますよ。
イロハが語り始める。
フォースフィードバック——力覚提示。ステアリングが返す「重さ」は、単なる演出ではない。ドライバーにとっての情報チャネルだ。
人間はステアリングの重さの変化で、タイヤのグリップ状態を判断しています。重くなればグリップしている。急に軽くなればタイヤが限界を超えた合図。視覚で確認するよりも速く、身体が反応できるのです。
……つまり、レイテンシーの問題?
ええ。視覚情報の処理には約200ミリ秒かかります。しかし触覚——力覚フィードバックの認知は約50ミリ秒。4倍速いのです。
(目が光って) 150ミリ秒の差……。60fpsだと9フレーム分。それは無視できないね。
でしょう? 速さを追求する貴方なら分かるはずです。モニターが教えてくれない情報を、ステアリングの重さが教えてくれる。「重い」ことは「遅い」ことではない。**「重い」は「情報が多い」**ということなのです。
湿布の理由
……へえ。てことは、ギアドライブとかベルトドライブより、ダイレクトドライブが良い理由って——
ギアやベルトを介すると、伝達経路にノイズが乗ります。歯車のコギング、ベルトの伸び。それらが路面情報を曖昧にしてしまう。ダイレクトドライブは名前のとおり、モーターの力をそのまま伝える。S/N比が高いのです。
S/N比か……。いいね、その言い方。ノイズフロアが低いから、かすかな路面変化も拾える。
そのとおり。10Nmという出力は、単にステアリングを重くするためではなく、微細な力の変化を再現するための帯域幅なのです。
ここでハクアがふと気づく。イロハの右手首に、薄いサポーターが巻かれていることに。
……イロハ。その手首のやつ。
(少し目を逸らして) ……10Nmと格闘していると、手首にも肩にも負荷がかかりますから。
湿布の匂い、前からしてたの、もしかして——
(遮るように) 「身体性の回復」と呼んでいます。デジタルの仕事をしていると、身体が消えていくのです。マウスとキーボードだけの世界では、手は「入力装置」に過ぎない。しかしステアリングを握れば、手は「感覚器官」に戻る。
……。
痛みは、わたしがまだ物理世界に繋がっている証拠ですよ。
リバリーに宿す美学
(しばらく黙って走行を続けて) ……悔しいけどさ。この重さ、慣れてくると気持ちいいかも。コーナーの手前でステアリングが重くなって、抜けると軽くなる。波みたいだ。
ふふ。素直でよろしい。
あ、そういえば。ボクのマシン、デフォルトの白いままなんだけど。イロハのマシンってどんな色なの?
(急に表情が変わって) ……見ますか?
画面に表示されたイロハのマシンは、深い深紅と金のリバリーだった。ただの趣味のカラーリングではない。前方から見ると視認性の高い暖色で威圧感を与え、側面は色の対比で車体を大きく見せる——計算し尽くされた配色だ。
……なにこれ。プロのデザインじゃん。
色彩心理学の応用です。後続車のドライバーに心理的圧迫を与えるための設計ですよ。赤は「接近」を、金は「権威」を無意識に暗示する。
やば。色で速くなるって……反則じゃない?
「美学は勝つための機能」。わたしがいつも言っていることですよ、ハクアちゃん。
重さのない世界で、重さを求めて
(コックピットから降りて、手をぶらぶらさせながら) 腕パンパンだ……。30分走っただけなのに。
実車のレースドライバーは、これを2時間続けるのですよ。フィジカルトレーニングが必要な理由が分かるでしょう?
うん……。てかさ、ボク、ずっと思ってたんだけど。
なんですか?
シムレーシングって矛盾してない? デジタルで全部完結するのに、わざわざ重いステアリングとか、硬いブレーキとか、物理を再現しようとしてる。デジタルの利点ってそういうの全部スキップできることじゃん。
いい問いですね。
イロハが静かに語る。
人間は情報だけでは満足できない生き物なのです。モニターに映る映像が完璧でも、手に重さがなければ、身体は「嘘だ」と感じる。視覚と触覚の不一致——VR酔いと同じ原理ですよ。
シムレーシングが追求しているのは、「重さのない世界に重さを取り戻す」という矛盾した夢です。そしてその矛盾にこそ、テクノロジーの本質がある。技術は人間を身体から解放するためだけにあるのではなく、身体との対話を深めるためにも使えるのですから。
……なんか、ボクの遺物の話と似てるかも。デジタルだけじゃ足りないから、焦げた基板を捨てられない。
ええ。貴方のSocket 7も、わたしの10Nmも、同じものを求めているのですよ。手応え——この世界に自分が存在している、という確かな感覚を。
ステアリングの重さは、ただの物理ではない。路面情報という「データ」であり、身体感覚という「存在証明」であり、勝つための「戦略」でもある。
デジタルの世界に没入するために、あえて物理の重さを取り戻す——シムレーシングが教えてくれるのは、そんな逆説的な真理だ。
次にL-yard編集室の休憩室を覗いたとき、もしかしたら湿布の匂いがするかもしれない。その匂いの主が誰なのかは、もうご存知のはずだ。
イロハの本棚
この記事で触れた書籍と、さらに深く知りたい人への推薦図書。
メイン書籍
『ハプティクス入門』 篠田裕之(朝倉書店、2016年)
イロハの一言: 「力覚提示の基礎理論を学べる教科書です。ステアリングを握る手が『感覚器官』に変わる理由が、科学的に理解できますよ」
関連書籍
- 『モータースポーツのテクノロジー 2024-2025』 三栄 — レースの物理学と技術トレンドを俯瞰
- 『身体知』 諏訪正樹 — 身体が「知っている」知識の研究。なぜ重さが情報になるのか