音楽を"所有"しなくなった私たちは、何を手に入れたのか
ハクア
イロハ
culture 対話形式

音楽を"所有"しなくなった私たちは、何を手に入れたのか

月額1,000円で1億曲が聴き放題——そんな時代に、私たちは音楽との関係をどう変えたのか。アルゴリズムが選ぶ快適さの裏にある「聴覚のフィルターバブル」、所有からサブスクへの移行で薄れた1曲の重み。ハクアとイロハが「聴く」の本質を問い直す。

音楽サブスクストリーミング文化論

音楽を”所有”しなくなった私たちは、何を手に入れたのか

月額1,000円で1億曲。検索すれば一瞬で再生が始まり、アルゴリズムが「あなたの好み」を先回りしてくれる。音楽ストリーミングは、音楽との出会い方を根本から変えた。

だが、ふと気づくことはないだろうか。再生履歴を眺めて、「この曲、いつ聴き始めたんだっけ」と思う瞬間。あるいは、どれだけ聴いても「自分の曲」という感覚が薄い、あの奇妙な軽さ。

便利さと引き換えに、私たちは何を手放したのか。


選ばなくていい時代

L-yard 編集室。ハクアがヘッドフォンを外し、画面に目を落としている

ハクア
ハクア

ねえイロハ、今週のDiscover Weeklyがさ、またドンピシャなんだよね。ボクの好み完全に把握されてる。

イロハ
イロハ

あら。それは便利ですね。

ハクア
ハクア

便利っていうか、もう自分で探す必要ないレベル。アルゴリズムが勝手に最適化してくれるし、再生ボタン押すだけ。最高じゃん。

イロハ
イロハ

では、ひとつ聞いてもいいですか。最後に「自分で選んだ」曲を覚えていますか?

ハクア
ハクア

え? ……えーと。

イロハ
イロハ

アルゴリズムが提案したものではなく、自分の意志で探して、見つけて、「これだ」と思った曲。

ハクア
ハクア

……いや、それは……。てか、結果として良い曲聴けてるなら同じじゃない?

イロハ
イロハ

同じではありませんよ。レストランで「おまかせ」ばかり頼む人は、メニューを読む力を失いますわ。

レコメンドエンジンは快適だ。Spotifyの「Discover Weekly」やAmazon Musicの「あなたへのおすすめ」は、聴取履歴・スキップ率・時間帯まで解析して選曲する。精度は年々上がっている。

だが、心地よい提案だけを受け取り続けるとどうなるか。聴覚の「フィルターバブル」が形成される。似た曲調、似たジャンル、似たBPM。快適だが、驚きがない。かつてラジオから突然流れてきた、まったく知らないジャンルの曲に心を掴まれた——あの衝撃は、アルゴリズムの設計思想と相性が悪い。


CDを「買う」ということ

イロハ
イロハ

ハクアちゃんは、CDを買ったことはありますか?

ハクア
ハクア

あー、子供の頃に何枚か。親のクルマに積んであったやつを勝手に聴いてたかな。

イロハ
イロハ

CDショップで棚を眺めて、ジャケットに惹かれて手に取って、裏の曲目を読んで、3,000円を払う。その一連の行為が「音楽を選ぶ」ということでしたの。

ハクア
ハクア

3,000円で十数曲って、今の感覚だと高すぎない? サブスクなら月980円で1億曲だよ?

イロハ
イロハ

ええ、コストパフォーマンスでは比較になりませんわね。でも、3,000円を払ったCDには「覚悟」がありましたのよ。

ハクア
ハクア

覚悟?

イロハ
イロハ

お小遣いの中から選んだ1枚ですもの。ハズレでも何度も聴き返す。3曲目は微妙だと思っていたのに、ある日突然好きになる。そういう関係が生まれますの。

ハクア
ハクア

……あー。サブスクだと、微妙だと思ったら即スキップだもんね。

イロハ
イロハ

そう。スキップできるということは、「向き合わなくていい」ということですわ。

音楽の消費形態は、ここ30年で劇的に変わった。

時代形態1曲あたりコスト関係性
1990年代CD購入約200-300円所有。繰り返し聴く
2000年代iTunes/配信購入150-250円所有。選んで買う
2010年代〜ストリーミング約0.01円利用。流して聴く

1曲あたりのコストは劇的に下がった。だが、コストが下がるほど、1曲への「重み」も薄れていく。3,000円のCDは棚に並べた。150円のダウンロードはフォルダに入れた。月額制のストリーミングは——どこにも残らない。


320kbpsの向こう側

ハクア
ハクア

まあ、所有の話は分かったけどさ。音質の面では確実に進化してるでしょ。Amazon MusicならUltra HDで3,730kbps、Apple Musicはハイレゾで9,216kbpsだよ?

イロハ
イロハ

その数字、暗記しているんですね。

ハクア
ハクア

当然じゃん。スペックは正義。

イロハ
イロハ

(眼鏡をクイッと上げて) では、ハクアちゃん。その3,730kbpsの音源を、今どんな環境で聴いていますか?

ハクア
ハクア

……ノイキャンヘッドフォンで。

イロハ
イロハ

電車の中で?

ハクア
ハクア

……うん。

イロハ
イロハ

3,730kbpsのUltra HDを、地下鉄の轟音の中でノイズキャンセリング越しに聴いている。それは本当に「高音質で聴いている」と言えますか?

ハクア
ハクア

ぐ……。

イロハ
イロハ

音質とは数字ではありませんのよ。聴く環境、聴く姿勢、聴く心の余白。それらが揃って初めて「良い音」になりますわ。

ストリーミング各社の音質競争は激しい。だが、冷静に考えてほしい。

320kbpsと3,730kbpsの差を、通勤電車の中で聴き分けられる人がどれだけいるだろうか。イヤホンの性能、周囲の騒音レベル、そして何より「集中して聴いているかどうか」の方が、体感音質への影響は圧倒的に大きい。

スペックシートの数字よりも、「この曲を聴くための10分間」を確保することの方が、はるかに贅沢な行為かもしれない。


音楽を”選び直す”

ハクア
ハクア

……じゃあどうすればいいのさ。サブスク解約してCD買えって言うの?

イロハ
イロハ

そんな極端なことは申しませんわ。サブスクリプションは素晴らしい発明ですもの。問題は「使い方」です。

ハクア
ハクア

使い方?

イロハ
イロハ

レコメンドを受け取るだけの「受動モード」から、自分で探しに行く「能動モード」に切り替えることですわ。

ハクア
ハクア

具体的には?

イロハ
イロハ

たとえば、週に1度は知らないジャンルのプレイリストを聴いてみる。アーティストのディスコグラフィを1枚目から順に聴く。あるいは、気に入った曲のプロデューサーやエンジニアの名前で検索してみる。

ハクア
ハクア

プロデューサー検索は……たしかにやったことないな。

イロハ
イロハ

「好きな曲」から「好きな音を作る人」に関心が移ると、音楽の聴こえ方が変わりますのよ。1億曲のライブラリは、受動的に消費する海にも、能動的に探検する宇宙にもなりますわ。

ハクア
ハクア

……悔しいけど、ボクのDiscover Weekly、全部同じような曲ばっかりだったわ。フィルターバブルってやつだね。

イロハ
イロハ

ふふ、気づけただけで十分ですわ。まずは今夜、1曲だけ「自分の意志で」選んでみなさい。

ハクア
ハクア

(ヘッドフォンをかけ直しながら) ……うん。なんか久しぶりに、ちゃんと聴きたくなってきたかも。

サブスクリプションは道具だ。包丁が料理の腕を決めないように、ストリーミングサービスが音楽体験の質を決めるわけではない。

大切なのは、「聴かされている」のか「聴いている」のかを自覚すること。月額1,000円で手に入る1億曲の海は、流されるままに漂うこともできるし、自分の耳で潮目を読むこともできる。

どちらを選ぶかは、再生ボタンを押す前に決まっている。


イロハの本棚

この記事のテーマをさらに深く考えたい方への推薦図書。

メイン書籍

『音楽の聴き方——聴く力を育てる5つのレッスン』 岡田暁生(中公新書、2009年)

イロハの一言: 「“聴く”とはどういう行為なのか。この本を読むと、同じ曲が別の音楽に聴こえるようになりますわ」

関連書籍

  • 『レコード・コレクターズ増刊 音楽の未来がここにある』 — ストリーミング時代の音楽産業を俯瞰する一冊
  • 『耳の悦楽——音楽についてのエッセイ』 ロラン・バルト — 「聴く」という行為の哲学的考察

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